■一般にはあまり認識されていませんが、私は登山道を「登山ルート」と「登山道」に分けることにしています。登山は仏教と結びついた修行道、あるいは登拝道によって大衆化されたわけですが、昭和になると国民的体力増強運動としての登山が奨励されたようです。戦後になると1956年のマナスル初登頂を頂点とする登山ブームが起こり、土曜日が「半ドン」であったため、登山者向けの夜行列車を利用して早朝に登り始め、日曜日中に帰るか、月曜日の朝帰りで仕事復帰という若者が激増したといわれています。そして重要なのはこの時期に地元の山岳会などが次から次へと新しい登山ルート(たいてい○○ルートなどという名前がついていました)を開拓し、雨後の筍のように出現した山小屋(多くは個人が勝手につくった掘っ立て小屋というイメージで、それが次々に、国が発行する地形図に載るのです)が都会からの登山者を迎い入れるべく「○○新道」というような登山道を開いたのです。
■そして大事なのはその後。1975年(昭和50年以降)に朝日カルチャーセンター(新宿)で始まった「女性のための入門登山」がありました。女性解放運動と思わせるような女性のためのカルチャー・ブームが起きたのです。それに引きずられるようにして「中高年登山」のブームが起こります。大学の私のクラブの先輩(創設期に山岳部から合流)の女性登山家・小倉薫子さんがその中心にいました。私は1983年に朝日カルチャーセンター横浜に呼ばれて、横浜ローカルでは成功しなかった「女性のため」の改定版として「40歳からの」という中高年向け登山講座の、5人の講師の末席に呼ばれたのです。
■私は探検部の出身で真一文字に「ピークハント」を目指す登山には違和感がありましたが、カルチャーセンター流の入門編登山で、当時一流の登山家たちのいささか試行錯誤的な「入門編」の指導を見ているうちに「入門編登山」そのものがじつはその人たちの健康や、生活の活性化に大きな影響を与えるということに気づいたのです。
■その最大の技術要点は平地で時速4kmで歩くエネルギーで山に登るということ。そのとき、首都圏の整備された登山道では「時速1km」になるということに気づいたのです。逆にいうと、エネルギーの「3/4を体を持ち上げるためにつかう勾配の道」を「登山道」として見ると、それは誰かが、都会からやってくる軟弱な登山者の顔を思い浮かべながら整備された道、だということに気づいたのです。のちに富士山の吉田口登山道が「県道富士上吉田線」で、その設計図面からまさにその「時速1km」で登る道だと確認できるのですが、じつはその最初のヒントをくれたのは朝日カルチャーセンター横浜で10年あまりご一緒した山岳写真家の内田良平さん。彼が北アルプスなどのガイドブックで「1時間で300m登れる道」を標準的な登山道としていたことに始まります。私はその「時速1km」の登山道の歩き方にこだわって「がんばらない山歩き」(1998年・講談社)をまとめたりしました。