■私はいま、こんなふうに「登山」にかかわる体験を書いていますが、実は登山での実績はまったくありません。大学で探検部というところに所属したら「体育会系」と「文化会系」がなぜかヒフティ・ヒフティという感じで、登山が両者合体可能なトレーニングだったということでした。「探検」なので頂上に立ってバンザイというのではあまり盛り上がらず、どちらかといえば「行き当たりばったり」型が面白かったと思います。ひとつの目的(ピークなど)に向かって合理的なつめ方を考えようとする登山に対して、むしろ「現場対応」の面白さを求めたように思います。だから、「いつ」「何が」起こるかわからない、というようなセッティングが横行していたのだと思います。私はもちろんその気風が「探検ごっこ」としては好きでした。
■自分自身がほぼ「中年」になったとき、あまり気が進まずに「中高年登山」という講座の、5人の講師陣の末席に加えられたのは、『地図を歩く手帳』(1980年、山と溪谷社)という本を書いたからでした。それも書きたかったというより、その「手帳シリーズ」の編集者として呼ばれたとき「一冊書いてみない?」と言われたのがきっかけでした。地図を持って歩こうというときに一番エキサイティングなのは、地図で探した何かを実際に見てみたいということだと信じていたので、当然「地図を使って合理的に歩こう」という精神から一脱していて、地図が波乱万丈の体験に導いてくれたら嬉しい、という気持ちが底辺にありました。
■そういう社会常識から言えば「ちょっと困った態度」の私が、探検部的に信じていた危機管理術の極意? を40歳代に入ってなお信じていたということになります。
1.「あれっ?」と思ったら休憩
2.「しまった!」と思ったらメシ
この、頭の片隅にチラリと登場した……小さな異質物にだけ鋭敏であり続ければ、そこから自分の実力を自分の意思で試すことが可能になる、と信じていた、信じたいと思っていたわけです。
実は私が新人部員だったとき、何回目かの知床半島合宿に参加したのです。積雪期の縦走は京都大学と北海道大学の混成部隊があっさり? とやってのけてしまったんですね。ハイマツ帯の上を覆った雪の上をスキーで走ってしまったんですね。もちろん厳冬期の知床でそんなことをやったのが「エライ」わけですが、探検的登山家を輩出していた京都大学と、その京大の血が流れていた北大の「探検精神」が成し遂げていたのです。
■その、知床半島縦断を「無積雪期」にやっていたのが我が早稲田で、つまりそれは雪の上をスキーで歩く・走る、というのと全く違って、地面に立つと腹から胸くらいの高さに太い枝を張り出しているハイマツの横枝をくぐったり、横枝から横枝へと伝い歩きしたりという肉体労働についてのみ難易度の極めて高い挑戦でした。もちろん敗退に次ぐ敗退で、私が新人部員として参加したときには「縦走隊」3人を3班だったか4班のサポート隊が食糧の補給をすると同時に、それぞれの区間で道つけして、縦走隊の行動を少しでも軽減させようとするものでした。
■当時は海岸線には番屋が立ち並んでいて、番屋から番屋へと続く陸路もありました。番屋を必要とする人たちはもちろん船で行き来するわけですが、私たちは羅臼から知床半島の先端までは歩くことが可能でしたから、サポート班はそれぞれの守備範囲にある沢を遡って、その最上流部あたりにキャンプを張り、縦走隊がやってくる日を待ちながら、頂上稜線をたどるルートをできるだけていねいに確定して、赤布などで指示したのです。もちろんノコギリやナタも持っていましたから、「道づくり」に類する行為もあって、のちに自然保護の観点から厳しく批判されたりもしました。私は最下級生でしたから、1か月以上、ハイマツの海(ジャングルじゃありません、海原です)を泳ぎまわっていたのです。ひと月間(実際は2つのサポート区間に分かれていましたが)3種類の同じ飯を食べ続け、汗をかいてはびっしょり濡れた木綿の服を脱いで寝て、翌日またそれを着て出かける、という単調な日々を過ごしたのです。収穫はもちろんありました。ひとつは知床名物のブヨ(と私たちが呼んだ)小さな敵に対して一定程度の耐性ができたこと、もうひとつは自分の血がなんだか完全に入れ替わって、別人になったように「感じた」ことでした。おそらく間違いなく、私の人生で「最強」だったと思う体験でした。
■その日々に、私たちは「あれっ?」と思ったら、そのことの大小や是非とは関係なく、とりあえず休憩して、一瞬考えてみる、という方法を身につけたのです。そして「しまった!」と思ったら、当然何らかの解決手段が求められるわけですから、できれば「飯を炊こう」というような意味で、食べられるものを食べて、対応できる自分たちの状態を確保してから、その「しまった!」をみんなで考えようとしたのです。日々は単調でしたから、あるいはそれを少しでもドラマチックにしようとしたリーダー側の巧みな作戦であったかもしれませんが……。